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ということで、過去も過去、学生時代の私の自己紹介です。この HP に掲載する写真の一部は、この時代に撮りました。

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ニツカーホースにフラノ地の背広、タータンチェックのハンチング。粋なもんでしょ!? 薬師岳を越え、黒部川を吊り橋で渡って辿り着いた雲の平。折からシャクナゲの花が真っ盛り。至るところにお花畑と池溏が点在する、天国みたいな高原でした。 バックの山は水晶岳。足元にはムシトリスミレの群落が。(1966.7.31) |


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花弁の色はスミレによく似た赤紫色です。古いフィルムなので、補正しきれないほど色がおかしくなってしまいました(他の写真も同様)。(1966.7.31) |
健脚でした。そして、いつも独り*でした。花を見つけてはカメラを取り出して写真を撮り、雷鳥の雛行列に出くわせば岩と化して通り過ぎるのを観察するのでは、誰もパーティーを組んではくれません。記念写真を撮るときは、岩やリュックサックが三脚代わりです。(本物の三脚もリュックサックに縛りつけて持ち歩いていました。解いたり縛り直したりが面倒なので、使わないことの方が多かったのですが。)
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* 西洋流の登山技術は、はじめドイツ語圏から輸入されました。そのため、ハーケンだの、アイゼンだの、モルゲンロートだのと、登山用語にはドイツ語が多く残っています。単独行のことは「アラインゲーエン」、単独行者のことは「アラインゲンガー」と言います。
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いろいろ楽しい経験をしましたが、わけてもこの太郎山から雲の平を経て槍ヶ岳までの縦走は、天候と花期に恵まれて、最も思い出深い山歩きのひとつになりました。

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中央彼方の尖った山頂は槍ヶ岳。そこから右に連なる山脈は穂高連峰。今日はのんびりと、画面右外にある三俣蓮華岳を通って、画面右から槍ヶ岳に向かって伸びる雪渓が残った稜線伝いに双六岳へ。一旦、少し下って双六小屋泊まり。明日は槍ヶ岳から上高地へ。(1966.8.1) |
三俣蓮華のお花畑は、数百メートル風下からそれと判る芳香を漂わせ、到着したらむせかえるほどに香り立つ華やかな斜面でした。文字どおりの百花繚乱。溶かした雪で喉を潤しながら、ずいぶんの時間を過ごしてしまいました。
双六池のほとりでは、黒百合の大群落が待っていてくれました。芳香とは言い難い匂いには悩まされましたが、すばらしい眺めでした。あれほどの大群落には、その後出会ったことがありません。

| 双六池横のお花畑は、黒百合畑と言ってよいほど黒百合でいっぱいでした。ガイドブックには特に黒百合のことは書いてなかったので、この年だけの現象だったのかもしれません。(1966.8.2) |

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当時使ったサブザックや薮漕ぎ用のスパッツ。揃い柄のハンチング帽子とマフラーは、ザックやスパッツに描いたアザミの絵と共に、私のトレードマークでした。愛用した横キスは、さすがにもう残っていません。 |

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SP は、50mm F2 レンズにクローズアップアタッチメントと 105mm F4 レンズを1セットにして、ハードケース(オリンパスペンF用バッグを改造)に容れて持ち歩きました。(写真はクローズアップアタッチメントを装着した状態。シャッタースピードダイアルに連動するセレン光電池露出計もありますが、フラッシュガンシューに取りつけるクリップオンタイプであるため、クローズアップアタッチメントとの併用はできず、別のタイプの露光形を持ち歩くことが多かったので、ここには並べてありません。) F は多くのアクセサリーを購入しましたが、山歩きには 50mm F2 レンズとクローズアップレンズだけを携行しました。露出計はセレン光電池式の専用露出計。シャッターダイアルと絞り環に連動する日本光学自慢の優れ物でした。(50mm F2 レンズはもう引退し、写真は2代目のマクロレンズです。) |
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** 沖縄・小笠原はまだ外国扱いでした。
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海に突き出ている岬は長崎鼻、遠くの山脈は大隅半島。(1964.3.8) |
残念なことに、腰椎を痛めてしまいました。日常生活には支障はないのですが、重いザックを背負っての山歩きはもう無理。単独行は自殺行為です。健脚を頼んでの自然探索は、20代前半のほんの短い期間で終わりを告げ、一度は登りたいと憧れたキリマ・ンジャロは夢の世界へ消えて行きました。
それ以後は、専ら観光旅行。海外のアザミはそれ以降の撮影になります。